ご紹介した映像はファッション、エディトリアル、ドキュメントフォトグラフィーを手掛ける写真家のAndre Wagnerのプロジェクト”The Passion Project”によるものである。(以前Andre Wagnerを紹介した記事はこちら)
登場する詩人のJoekenneth Museauを今回ご紹介したい理由は、「言葉の幅が感受性の幅を左右する」重要性を今一度感じさせてくれる存在だからである。
ここで突然だが、あなたは頭の中で知っている色の数だけが現実世界において反映されるような空間に住んでいるとしよう。そして、現状は白と黒しか知らないため、世界もモノクロに見えるとしよう。ここで、あなたが美しい風景を描こうとしている水彩画家だとするならば、当然手元のパレットには白と黒色の絵の具しか用意が無い。どんなに白と黒色をうまく混ぜ合わせたとしてもグレーの濃淡を表現する事しかできない。本来、色彩豊かな世界空間に囲まれている私達は、このような状況を見ると、まさしく盲目的な世界と感じるかもしれないが、ここでいう「色」こそが人間にとっての「言葉」である。(白黒の絵も美しいのだが、この例ではとりあえず色彩豊かな絵を描きたい事を前提とさせて頂きたい)
私達が持ち合わせている言葉の数や種類、幅、奥行によって、私達が認識し、生きる事ができる世界は変化してくるのである。
人間が頭で世界の事柄を理解・把握・認識・整理するためにはそれらの事柄を言語化する必要がある。(もちろん、五感として捉えている事(体が覚えている)ものも数多くあるが、これは別のものとして考える。
例えば、何かを経験したり感じたりした際に、それらの経験によって得られた情報を「楽しかった」「悲しかった」「○○がうまくいったから××がスムーズにできた」等といった、認識、整理、意味付け、原因探求等を行う。逆に、言語化しなければ、整理も意味付けもできない。この時重要な事は、それらの経験を言葉として把握しようとする時に、あくまでも現在知っている言葉の貯蔵庫から適切な言葉を探す以外は不可能である、という事。何故ならば、人間は「知らない事は想像も活用もできない」からである。
つまり、先ほどの例で言えば、もし白黒以外の世界を見てみたいと思うのであれば、白黒以外の色の「存在」自体も同時に学ばなければ、世界における多彩な色を知ることも、活用する事もできない。
喜怒哀楽というが、本来は「喜ぶ」といった感情一つとっても、まるで色のグラデーションのように実に無数の「喜び」がある。人間は繊細で感受性高い生き物であり、とても複雑である。もし、様々な微細なニュアンスが織り混じった感情を「嬉しい」といった言葉しか持ち合わせていなかった場合は、その感情を「嬉しい」としか表現しようがなく、結果的に自分自身が本来胸の中で感じている微妙なニュアンスを相手に伝える事ができないだけでなく、自分自身のイマジネーションも結果的にこの「嬉しい」という言葉の範囲に収容されてしまう。逆に言えば、新たな言葉を習得し、言葉と丁寧に向き合っていく事が、自分自身のイマジネーションの拡張に繋がるという事である。
古来より、感受性大国である日本を見てみるとやはり色の種類一つとっても実に様々な種類があり、改めて日本が持つ感受性の豊かさが垣間見える。例えば、赤のグラデーションを見ても、「長春色」「緋褪色」「浅緋」「檜皮色」「紅樺色」などと細やかに濃淡が異なる色にそれぞれ名前がある。これらが生まれる背景には、日本人が色の微妙な変化を丁寧に感じ取ろうとする「感受性に対する姿勢」や「洞察力の練磨」が存在し、その結果、微細な色表現を持ち合わせた日本人は世界に類を見ない美しい配色の着物や衣類等を開発してきた。感受性と社会への創出物は常に連動するのではないだろうか。
もし、これら言葉の運用先が新しいアイディアやビジョンを人に伝達する場面、愛情や感動を人に伝える場面等を想像すると、その重要性がまた更に際立つのではないだろうか。
感性が言葉を教え、言葉が感性を教えてくれる。そんな繊細極まりない世界に人類は住居人として佇んでいるのである。そんな微細な表現物の結晶である言葉は、とてもではないが、乱暴には扱えない。
自分のパレットには一体何色用意されているか。あるいはそれらを巧みに組み合わせる事で世界に広がっている美しい風景や未来を描く事ができるだろうか。
気づけばJoekenneth Museauの話が全く登場していないが、言葉と丁寧に向き合う彼が見える世界に触れながら、改めて言葉への姿勢を再考したい。
詳しくは下記ウェブサイトをご覧頂きたい。
abstractElements.com/passion
Joekenneth Museau Blog
http://joekenneth.tumblr.com/