Sean Woolseyさんはカリフォルニアのコスタメサで小さな工房を共同経営しているオーダーメード家具と照明の作り手と同時にアーティストもである。
元々は6年間程ファッション業界にてパソコンの前でカットソーのデザインを行なっていたが、もっと触覚性や手触り感があり、使い手との長期的な関係性を育めるような仕事をやりたいと考え、この道に進んだという。
実はSean Woolseyさんは日本の「Wabi-Sabi」の精神に大きく影響を受けているというから興味深い。完全性を不毛とし、不完全性にこそ美学を見出す精神。不確かで刹那的な要素を重んじる精神。そして、真の美しさとは自分とその他の物事との間におきる力学にあるとする精神。これらわびさびが持つ思想が彼の作品の支柱となっている。
結果よりもプロセスを重んじる彼の家具や照明は再生木材や回収された鉄素材等を用いて制作されている。
どこか過去と現在に残存する感覚を喚起するような素材を結び合せる事で、それが記憶に満ち溢れた作品となり、同時によりロマンティックな時空間とも引き合わせてくれる。
かつて、とある賢人が「専門家は閉鎖的で、初心者はオープンである。常にオープンであり続けろ」と言ったそう。その言葉を胸に、あらゆる可能性に対して絶えずオープンな姿勢を意識しているとの事。
探す事を止めると、発見をも失う。そんなメンタリティが彼の飽くなきモノづくりへの好奇心と情熱の原動力となっている。
このSean Woolseyが意識している、「初心者のオープン性を持つ事」について少し考えてみたい。というのもの、社会の中で、「その道を極める事」が無条件的に崇拝されてしまう世の中は少し不健全だと思うからである。
正確に言えば、「極めない事」の難しさがもう少し社会に浸透してもいいのではないか、という考えがある。
専門家を絶対視する事、逆に言えば「素人」を軽視するような見方はとても危険なように思う。もちろん、専門家が持つ深い洞察・知見・経験というものは何事にも代え難く、専門家の存在こそがその特定分野の発展に貢献している事は言うまでも無く、その存在に対する大いなる敬意を表したい。また、専門的になるという事は、それ以外の分野においてもある一定の深い知見が求められる。深く行くためには広く行く必要があるのだ。
しかし、専門的な知識や経験の蓄積が生む「自分自身への慣れ」が発見から自身を遠ざけ、予定調和へと招かれる要因にも成りうる。
知識や経験とは、ある側面から見れば様々な前提条件の塊でもある。 当然、前提条件が変われば、その先の話も変わってくる。
その専門家が前提条件としている事にふと、ハテナを放り込むのがまさしく素人である。そして、そのハテナという疑問を投げかけてた素人は、その疑問を解消する答えを提示する事で、専門家が辿りついていない新たな領域を発見する。
かつて自分自身にとって発見だった知識や憧れていた経験が、いつしか自分自身を規定する道具となる事に気付く瞬間である。
大事な事は、素人でいるという事は技術や知識を持たないという事ではなく、一つの姿勢であるという事。それは自分自身に「慣れない」事にも通ずる。
素人であるという事はある種、自分で自分を驚かせられる能力なのかもしれない。その驚きや発見が自身の内側から発せられるから、終わりなき探求の扉が拓く。
極めながら、極めない。これらを体現する事は難しいが、挑戦の価値が大いにある事ではないだろうか。
*彼のサイトにて他の作品等も見る事ができますので是非チェックしてみて下さい!
Sean Woolsey Website
http://www.seanwoolsey.com/